2022-04-24 14:49:08 +05:30

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「いい子だ、動くなよ」
これは、俺の親父の親父が教えてくれたまじないだ。狐を狩る時は、この言葉を唱えれば弓を引く手が震えない。
矢を放とうとした時、狐は頭を上げ、俺を見据えた。その目は湖のように輝いており、砕かれた宝石が散らばっていた。
俺の心は、突風に吹かれたように乱れた。放たれた矢は曲がり、狐の尾を閉じ込めていた氷を砕いた。狐は尾を上げ、俺を一瞥すると、林の中へと駆け込んだ。
我に返った俺は、すぐに後を追いかける。だが、人が狐に追いつくわけがない。
狐の後ろ姿がどんどん遠ざかり、白い点になる。
「おい! に、逃げるな——」
俺は叫ぶ。息をするのも精一杯だった。
でも俺の叫びに、白い点が僅かに速度を落とした。
(俺を待っているのか)
そう思った。
(逃るつもりなら、とっくにいなくなっているはずだ)
狐は不思議な生き物だ。障害物のない広い場所で走っていても、気が付くと姿が消えている。
まるで、違う世界へ行ってしまったように。
俺は確信する。
(あの白狐は俺を待っている、絶対にだ)
狐を信じて、白い点をひたすらに追いかけた。走っていると、不意に風が吹いた。
身震いして、再び顔を上げる。
「おかしいな」
白い点は二つになっていた。
そして三つになり、四つになる。風が吹くにつれ増えていき、やがて数え切れなくなった。
その瞬間、一つの点が俺の目に飛び込んで来た。痛みに目を擦ると、辺りの白い点が全て、漂う蒲公英の綿毛である事に気づいた。狐はいつの間にか消えていた。
己の愚かさを嘲笑しながら、俺は家に帰った。
大根しか入っていない鍋を食べる。俺はひもじい肉のない鍋が、大嫌いだ。空腹を感じながらも、俺は眠りについた。
深夜に目が覚める。ドアの外で小さな物音がしていた。